ワクチン被害

ワクチンを打たない人は「ズルい」のか

さんざん叩かれた"ワクチン様子見"の人たち

マスクしないなんてズルい!
ワクチン打たないなんてズルい!

「感染を減らそう」「集団免疫をつけよう」をスローガンにしてたコロナ禍2年目の去年。ノーマスクやノーワクチンの人は「ズルい!病院にかかるな!タダ乗りするな!」とさんざん叩かれました。病院にかかる権利は保険料を払ってるかどうかなので本来は関係のないことです。

「タダ乗り」というのも、大変差別的な言い方であり、集団でこういう批判をする行為は、同じ日本人として大変残念でもありました。コロナワクチンが本当に安全で有効性も高くコロナが終了したのであれば、「ズルい」という発想にはならないはずです。「ズルい」というのは、「したくなかったのに、我慢したのに、なぜそうじゃない人がいるのか、許せない」という、自分の矛盾点をこじらせた結果、生じる感情なのではないかと思っています。

 

ズルいと言いたくなるほどのワクチンだったのか?

ただ、今回のコロナワクチンに関しては「ズルい」と言いたくなる気持ちは、わからなくもないです。ワクチンを打てば

コロナは終わる!
日常に戻れる!
自由になれる!
マスクも外せる!
遠方の家族にも会える!

はずだった。

さらに、解熱剤がドラッグストアから消えるほど、副作用が高頻度に出る。このようなワクチンは他にありませんでした。でも、その辛い副作用にも耐えたんです、打たなければいけないと思っていたり、打つべきだと思っていたり、集団免疫がつくと思っていたから。

ところが現実はといえば

打ってもうつる
打ってもうつす
打っても重症化する
打っても死ぬ

でしたよね。95%の有効性を誇るワクチンを打ったのにコロナに感染する。全員が接種している病院でクラスターが止まらない。「ふざけるな!だまされた!」と思ってもぶつける先がないし腹も立つでしょう。だったら、攻撃しやすい少数派に言おう、ということでバッシング真っ最中の非接種者は格好のターゲットになりました。

 

ズルい=相手が悪い

まず「ズルい」という言葉そのものは、私は大人になってからほとんど使いません。

使わないように気をつけているのと、大人で「ズルい」を使ってる人をみて恥ずかしいと思ったからです。「ずるい」と言う気持ちの裏には、自分が相手をうらやんでいるのに、そうなったのはあたかも相手が悪いかのように考えるという、歪んだ思考回路があります。

子どもはわりと頻繁に「ズルい」を使いますよね。「あの子、かわいい筆箱2つも持っててズルい」「あいつ、テストでいい点とってズルい」など。ズルいの主語は「相手」であり「相手に非があり、自分には非がない」ということにできます。ただ小さい子どもは、自分に非がないと強調したくなる生き物でもあるのでしかたない面はあります。

この場合の対処法として、大人は子どもの「ズルい」を「羨ましい」に置き換えてあげてください。「ズルい」の主語は相手ですが、「羨ましい」の主語は自分。「私はあの子が羨ましい!私もかわいい筆箱買うためにお小遣いためよう」「僕はあの子が羨ましい。テストでいい点とって。僕もがんばろう」という前向きな発言にシフトして自分の問題として置き換えられるようになるからです。

 

 

この子どもの事例で気づいたと思いますが、ワクチン非接種者に対して「ズルい」と言ってくる人は、<相手に非があり自分には非がないと主張したいのです。「自分悪くないもん!相手が悪いんだもん!」とまるで子どもの発想ですよね。

 

打つ・打たないの決定権は自分にある

日本は同調圧力のひどさが際立っており義務化せずともあっという間に接種8割達成。ただし、同調圧力がひどいといっても義務ではなく、打つ打たないの選択肢は自分にあったわけです。「自分で決める」という自己決定権があったんです。

職場の圧力がすごかろうと、打たない選択はできたのです。「職場の事情も知らないで!打ちたくないけど医療従事者だから打たざるを得なかったんです!」とツイッターで怒られたこともあります。

確かに同調圧力は良くないです。ワクチンハラスメントは法的にも問題山積みなので、きちんと訴訟なりして法的に良くないと明らかにされるべき。しかし、同調圧力で打たざるをないことと、非接種者がズルいといのはまったく関係ありません。非接種者が打て打てと同調圧力かけたわけではありません。

打たない人たちは、打ちたくない理由があって打たなかっただけです。むしろ「副作用がよくわかってなから、まだ打たない方がいいよ」と資料などを用意し、接種に慎重になるよう呼びかけた方も多かったと記憶しています。

「ズルい症候群」のゾンビ人間

この記事を読んでいるあなたはきっと「自分の生き死にに関わるような重要ごとを他人軸で決めるなんてありえない」と思っているのではないでしょうか。自己決定権があるのだから、自分軸で大事な決断をしたいと思っているはずです。私もそうでした。特にワクチンのように、人生に重大な影響を与えることは、最終決定は絶対に自分でしたい

ところが「ノーマスクがズルい、ノーワクチンがズルい、旅行に行ってズルい、外食してズルい」という「ズルい症候群」の大人たちはとにかく他人軸なのです。マスクもワクチンも旅行も外食も、何一つ義務化されてないのに、自分に選択権があるのに、自分の意志で決めないのです。

いつだって他人軸。「テレビで言ってたから」「会社が言ってたから」「医者が言ってたから」。そしてさらに自分や他人を納得させるために「思いやり」まで持ち出してきました。「私は他人様を思いやっているのよ」という思いに浸ることで、決定のプロセスをいとも簡単に放棄するのです。

なぜ、他人軸で重要事項を決定するのか、とても不思議だったのですが、「#私は打たされた」のツイートを眺めるうちに、他人軸で決めることに偉大な偉大なメリットがあることに気づきました。

 

下心ありき

その偉大なメリットとは、信じられないかも知れませんが「何かあった時に他人のせいにできる」という逃げ道です。「テレビで打てって言うんだから、そりゃ打つでしょう」「みんなマスクしてるじゃない。だから私もするわよ」といった発信の裏には常に「私が決めたんじゃない。勝手に決められたの。それに従ってるだけ。何かあっても自分のせいじゃない」という気持ちが孕んでいるように思います。

その下心のままで、何もなければ、それでもいいのかもしれません。ですが、その逃げ道を常に用意することで、失うこともあるのではないでしょうか。例えば、ワクチン接種後に、副反応による健康被害にあった人はまさにそうですよね。いまだに回復できず会社にも行けずに寝たきり、車椅子での生活を余儀なくされています。

勤務先で打て打てとかなり強めに言われて打ったのかもしれません。テレビで打て打て言うから打ったのかもしれません。自分で意思決定しないことで逃げ道を用意したつもりかもしれません。その結果、なにかあった時に、打てと言った人たちは、なにかしてくれましたか?謝ったとしても、元通りになれる補償は一切ないのです。

 

他人の自己決定権にまで口を出す人

辛辣な言い方ですが、他人軸で決めて逃げ道を作ってみたものの、結局は悲惨な目にあった場合、それは自己完結で終わるので被害は自分だけですみます。ところが自己決定権を思いっきり否定する人は、他人の自己決定権も否定していいと勘違いしてる方がわりといます

「私が我慢してるんだからあなたも我慢して当然」「みんなマスクしてるんだからマスクして当然」と。本来は感染対策ですから、感染が防げてるなら実践する、防げてないならやめる。これが科学的態度でしょう。ですが、もはや科学などは飛び越えて、他人が自己決定することを許さないと暴走した大人は、このコロナ禍で散見されました。

 

子どもから自己決定権を奪ってはいけない

とはいっても、大人はまだテキトーに誤魔化せるからいいと思います。問題は子ども。子どもがいる方にもいない方にも、子どもの自己決定権が常に奪われていることを問題視してほしいのです。子どもは、いかに理不尽な対策だろうと断れません。

大人のようにうまく流せないし、園や学校で常に監視されながらやらざるを得ない。先生の誤った価値観で子どもの健康に良くないことを強制して監視までしている、これは越権行為ではないでしょうか。子どもにも人権はあるのです。

子どものうちから日常的に自己決定権を否定されまくるのは、かなりの問題でしょう。他人軸で決めることで、自分1人だけの逃げ道を用意したつもりかもしれませんが、結局大人の多くが逃げ道にすがって責任回避していたら、子どもは健全に育つでしょうか。もし大人自身が自己決定をしていたなら、それを見た子どもは「自分のことは自分で決めるものだ」と学びます。

、今ならまだ食い止めることができると思っています。だから、たかがマスクごとき、たかがワクチンごとき、と逃げ回ってないで自分で考えて自分で納得して自分で決定する。この当たり前の自己決定プロセスをいちいちやってほしいのです。

それを子どもは見てます。子どもはバカではありません。むしろ感覚は大人より鋭いところもあります。うまく言葉にできなかったとしても、理不尽にやらされたこと、嫌だなと思ったこと、納得いかなかったこと、すべてを感じています。だから、まずはがんばろう大人たち!

 

 

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