公的資料

他人軸で生きるゾンビ大人

さんざん叩かれた"ワクチン様子見"の人たち

マスクしないなんてズルい!
ワクチン打たないなんてズルい!

「感染を減らそう」「集団免疫をつけよう」をスローガンにしてたコロナ禍2年目の去年。ノーマスクやノーワクチンの人は「ズルい!病院にかかるな!タダ乗りするな!」とさんざん叩かれました。病院にかかる権利は保険料を払ってるかどうかなので関係ないし、タダ乗りしようにも接種者が次々感染してタダ乗りどころじゃなかったわけですが。ズルい発言については、日本人特有の粘い感じがあってちょっと根深い問題でもあります。

 

ズルいと言いたくなるほど酷いワクチン

ズルいと言いたくなる気持ちは、わからなくもないです。だって、ワクチンを打てば

コロナは終わる!
日常に戻れる!
自由になれる!
マスクも外せる!
遠方の家族にも会える!

はずだった。だから辛い副作用にも耐えた。なのに現実は
打ってもうつる
打ってもうつす
打っても重症化する
打っても死ぬ
結局ワクチンを打つ意味なんてなかったのです。「ふざけるな!だまされた!」と思ってもぶつける先がない。でも腹が立つ。だったら、攻撃しやすいアイツに言ってやろうってなもんで、バッシング真っ最中の非接種者は格好のターゲットになりました。

 

ズルい=相手が悪い

まず「ズルい」という言葉そのものは、私は大人になってからほとんど使いません。使わないように気をつけているのと、大人で「ズルい」を使ってる人をみて恥ずかしいと思ったからです。「ずるい」と言う気持ちの裏には、自分が相手をうらやんでいるのに、そうなったのはあたかも相手が悪いかのように考えるという、歪んだ思考回路があります。

子どもはわりと頻繁に「ズルい」を使います。「あの子、かわいい筆箱2つも持っててズルい」「あいつ、テストでいい点とってズルい」など。ズルいの主語は「相手」であり「相手に非があり、自分には非がない」ということにできます。ただ小さい子どもは、自分に非がないと強調したくなる生き物でもあるのでしかたない。

ですから、大人は子どもの「ズルい」を「羨ましい」に置き換えてあげるといいです。「ズルい」の主語は相手ですが、「羨ましい」の主語は自分。「私はあの子が羨ましい!私もかわいい筆箱買うためにお小遣いためよう」「僕はあの子が羨ましい。テストでいい点とって。僕もがんばろう」という前向きな発言にシフトして自分の問題として置き換えられるようになるからです。

 

 

この子どもの事例で気づいたと思いますが、ワクチン非接種者に対して「ズルい」と言ってくる人は、相手に非があり自分には非がないと主張したいのです。「自分悪くないもん!相手が悪いんだもん!」とまるで子どもの発想なのです。

 

打つ・打たないの決定権は自分にある

日本は同調圧力のひどさが際立っており義務化せずともあっという間に接種8割達成。ただし、同調圧力がひどいといっても義務ではない。打つ打たないの選択肢は自分にあったわけです。「自分で決める」という自己決定権があったんです。職場の圧力がすごかろうと、打たない選択はできたのです。「職場の事情も知らないで!打ちたくないけど医療従事者だから打たざるを得なかったんです!」とツイッターで怒られたこともあります。

確かに同調圧力は良くないです。ワクチンハラスメントは法的にも問題山積みなので、きちんと訴訟なりして法的に良くないと明らかにされるべき。しかし、同調圧力で打たざるをないことと、非接種者がズルいといのはなにも関係ない。非接種者が打て打てと同調圧力かけたわけではありません。打たない人たちは、打ちたくない理由があって打たなかっただけです。むしろ「危ないからまだ打たないほうがいいよ」と資料やら動画やら用意し、接種に慎重になるよう呼びかけた方も多かったと記憶しています。かなりバッシングされましたけどね。

「ズルい症候群」のゾンビ人間

この記事を読んでいるあなたはきっと「重要なことを他人軸で決めるなんてありえない」と思っているはず。自己決定権があるのだから、自分軸で大事な決断をしたいと思っているはずです。私もそうです。特にワクチンのように、人生に重大な影響を与えることは、最終決定は絶対に自分でしたい

ところが「ノーマスクがズルい、ノーワクチンがズルい、旅行に行ってズルい、外食してズルい」という「ズルい症候群」の大人たちはとにかく他人軸マスクもワクチンも旅行も外食も、何一つ義務化されてないのに、自分に選択権があるのに、自分で決めないのです。いつだって他人軸。「テレビで言ってたから」「会社が言ってたから」「医者が言ってたから」。そしてさらに納得させるために「思いやり」をトッピングするからタチが悪い。

「私は他人様を思いやっているのよ」という思いに浸ることで、決定のプロセスをいとも簡単に放棄するのです。ゾンビですか?

 

なぜ、こんなに気持ち悪いことをするのか不思議だったのですが、「#私は打たされた」のツイートを眺めるうちに、他人軸で決めることに偉大な偉大なメリットがあることに気づきました。

 

下心ありき

その偉大なメリットとは、信じられないかも知れませんが「何かあった時に他人のせいにできる」という逃げ道です。「テレビで打てって言うんだから、そりゃ打つっしょ」「みんなマスクしてるじゃない。だから私もするわよ」といった発信の裏には常に「私が決めたんじゃない。勝手に決められたの。それに従ってるだけ。何かあっても自分のせいじゃない」という気持ちが孕んでいるように思います。私の勘ぐりすぎでしょうか?

その下心のままで、何もなければ、それでもいいのかもしれません。ですが、その逃げ道を常に用意することで、失うこともたくさんあるのです。例えば、ワクチンを打って健康被害にあった人はまさにそうですよね。いまだに回復できず会社にも行けずに寝たきり、車椅子での生活を余儀なくされる。最悪は死亡です。

勤務先で打て打て言われて打ったのかも知れません。テレビで打て打て言うから打ったのかも知れません。自分で意思決定しないことで逃げ道を用意したつもりかもしれません。その結果、なにかあった時に、打てと言った人たちは、なにかしてくれましたか?みんな知らん顔して逃げたのではないですか?謝ったとしても、元通りになれる補償は一切ないのです。

 

ゾンビ子どもを量産しないためにも、がんばれ大人

辛辣な言い方ですが、他人軸で決めて逃げ道を作ったけど、結局悲惨な目にあってみんな逃げた、というのは、自己完結で終わるから被害は自分だけです。ところがやっかいなことに自己決定権を思いっきり否定する人は、他人の自己決定権も否定していいと勘違いします。「私が我慢してるんだからあなたも我慢して当然」「みんなマスクしてるんだからマスクして当然」。もうウンザリですが、、、大人はまだテキトーに誤魔化せるからいいと思います。

問題は子どもです。子どもがいる方にもいない方にも、子どもの自己決定権が常に奪われていることを問題視してほしい。子どもは、いかに理不尽な対策だろうと断れません。大人のようにうまく流せないし、園や学校で常に監視されながらやらざるを得ない。先生の誤った価値観で子どもの健康に良くないことを強制して監視までしているのです。

子どものうちから日常的に自己決定権を否定されまくるのは、かなりの問題でしょう。他人軸で決めることで、自分1人だけの逃げ道を用意したつもりかもしれませんが、結局大人の多くが逃げ道にすがって責任回避するせいで、子どもが健全に育てない。もし大人自身が自己決定をしていたなら、それを見た子どもは「自分のことは自分で決めるものだ」と学びます。

自己決定権があるのにそれを放棄している大人だらけになったらどうなるでしょうか?今の子どもが大人になった時に思い切り復讐されるのか、はたまた自己決定ができないゾンビだらけの社会になるのか。どっちに転んでも地獄ですが、今ならまだ食い止めることができると思っています。だから、たかがマスクごとき、たかがワクチンごとき、と逃げ回ってないで自分で考えて自分で納得して自分で決定する。この当たり前の自己決定プロセスをいちいちやってほしいです。それを子どもは見てます。子どもはバカではありません。むしろ感覚は大人より鋭いところもあります。うまく言葉にできなかったとしても、理不尽にやらされたこと、嫌だなと思ったこと、納得いかなかったこと、すべてを感じています。

だから、まずはがんばろう大人たち!

 

 

コロナワクチン失敗の本質

-公的資料

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